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釣師も、カメラマンも・・・
釣師も、カメラマンも、新聞記者も、学者も、これからは年ごとに仕事がしにくくなることだろうと思う。
野生の帝国に首都はないが十字架もないのである。
われらの友人は、黙殺という、このうえなく痛烈な批判をして、声もなく、しるしものこさずに消えてゆく。
『オーパ!』より
焼跡ほど清潔さで私を・・・
焼跡ほど清潔さで私を魅するものはなかった。
それは巨大で徹底的な意志の容赦ない通過の跡であり、痛快に快かった。
人びとの悲嘆、懊悩は私にはほとんど訴えてくることがなかった。
私はこの痛烈さのほかに自分をゆるがす自然美を知らなかった。
『青い月曜日』より
すべての橋は詩を発・・・
すべての橋は詩を発散する。
小川の丸木橋から海峡をこえる鉄橋にいたるまで、橋という橋はすべてふしぎな魅力をもって私たちの心をひきつける。
右岸から左岸へ人をわたすだけの、その機能のこの上ない明快さが私たちの複雑さに疲れた心をうつのだろうか。
『ずばり東京』より
ソフィスティケーショ・・・
"ソフィスティケーション"と呼ばれる心の反射はただ洒脱だけに神経の切尖を磨いておくのではなく、
同時に本然の謙虚さや素朴さもそっとどこかに匂わせて相手を微笑のうちに信頼させる技でもあるらしい。
『開口閉口』より
誰かの味方をするには・・・
誰かの味方をするには誰かを殺す覚悟をしなければならない。
何と後方の人びとは軽快に痛憤して教義や同情の言葉をいじることか。
残忍の光景ばかりが私の眼に入る。
それを残忍と感ずるのは私が当事者でないからだ。
当事者なら乗りこえられよう。
私は殺しもせず、殺されもしない。
『輝ける闇』より
越前ガニ(雌)
越前ガニ(雌)
雄のカニは足を食べるが、雌のほうは甲羅の中身を食べる。
それはさながら海の宝石箱である。
丹念にほぐしていくと、赤くてモチモチしたのや、白くてベロベロしたのや、暗赤色の卵や、緑いろの "味噌" や、なおあれがあり、なおこれがある。
これをどんぶり鉢でやってごらんなさい。
モチモチやベロベロをひとくちやるたびに辛口をひとくちやるのである。
脆美、繊鋭、豊満、精緻。
『地球はグラスのふちを回る』より
ふるさとの宿 こばせ(開高丼)
越前ガニ(雄)
越前ガニ(雄)
殻をパチンと割ると、白い豊満な肉置きの長い腿があらわれる。
淡赤色の霜降りになっていて、そこにほのかに甘い脂と海の冷たい果実がこぼれそうになっている。
それをお箸でズィーッとこそぎ、むっくりおきあがってくるのをどんぶり鉢へ落す。
そう、どんぶり鉢である。
食べたくて食べたくてウズウズしてくるのを生ツバ呑んでこらえ、一本また一本と落していく。
やがてどんぶり鉢いっぱいになる。
そこですわりなおすのである。
そしてお箸をいっぱいに開き、ムズとつっこみ、「アア」と口をあけて頰ばり、「ウン」といって口を閉じる。
『地球はグラスのふちを回る』より
ふるさとの宿 こばせ(開高丼)
食べるあとあとから形・・・
食べるあとあとから形も痕もなく消化されてしまっていくらでも食べられ、
そして眠くならないというのがほんとの御馳走というものではあるまいか。
文学作品も、ほんとの名作というものは、
読後に爽快な無か、無そのものの充実をのこし、何も批評したくなくなる。
『最後の晩餐』より
バスが来た。トリスを・・・
バスが来た。
トリスを飲む。
山が見えた。
トリスを飲む。
川があった。
トリスを飲む。
灯がついた。
トリスを飲む。
課長が転んだ。
トリスを飲む。
目が覚めた!
家にいた!
1966年5月 サントリー「トリス」広告より
旅はとどのつまり、異・・・
旅はとどのつまり、異国を触媒として、動機として静機として、
自身の内部を旅することであるように思われるが、
自身をめざすしかない旅はやがて、遅かれ早かれ、ひどい空虚に到達する。
空虚の袋に毎日々々私は肉やパンや酒をつぎこんでいるにすぎないのではないか。
『夏の闇』より
古本屋歩きは釣りに似・・・
古本屋歩きは釣りに似たところがある。
ヤマメを釣ろうか、フナを釣ろうかと目的をたてることなく歩いてはいても、
たいてい、一歩店のなかへ入っただけで、なんとなくピンとくるものがある。
魚のいる、いないが、なんとなくわかるのである。
『ずばり東京』より
よろずこの世のことは・・・
よろずこの世のことはとことん一つの主題を掲げて追求していくと、
ある一点でふいに笑いが発生するものである。
それが、赤い嘲りの笑いか、黒い絶望の笑いかは、
その点に立ってみるまでわからないけれど。
『最後の晩餐』より
パイプを人前でふかす・・・
パイプを人前でふかすと何故か会話のスムーズな流れをさまたげられる。
パイプをふかす人は何かを閉じ、沈み、潜り、相手を拒む。
だからパイプは書斎や居間の独居、瞑想、沈思には欠かすことのできない友人だけれど、会話や実務の場には不向きのように思う。
『地球はグラスのふちを回る』より
国家が私に対してして・・・
国家が私に対してしてくれたことのみについて私は国家にそれだけの範囲内で何事かを奉仕してもよいと考えてはいるけれど、
いまの日本国家についてはそんなことを感じたことがない。
気質の中心において私は無政府主義者である。
『ずばり東京』より
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